パリ 6区 サン=ジェルマン=デ=プレ地区

旅先で見つけた風景に、物語を……。
登場人物やストーリーはフィクションですが、見えた風景などはリアルなものたちを舞台にしています。


Paris – Saint-Germain-des-Prés
パリ 6区 サン=ジェルマン=デ=プレ地区

 パリに住む人は、カフェが好きだ。それもテラス席。
たとえ木枯らしの吹く寒い季節であっても、日差しが出ていれば、好んでテラス席を選ぶのだ。

 パリ6区のサン=ジェルマン=デ=プレ地区は、パリ市内でも有数の高級住宅街。昔は多くの芸術家や哲学者、詩人などがこの場所に集い、今でも変わらず営業する老舗カフェ「レ・ドゥ・マゴ」に足繁く通い、論を交わしたり、冷めてしまったカフェ・オ・レを前に執筆作業に没頭していた。ピカソやヘミングウェイも自分のお気に入りの席をもっていたという。

流石に彼らと同じ頃からとは言わないが、白髪に真っ赤なコートがお似合いのエマも、長年このドゥ・マゴに通う常連客のひとりだ。彼女の特等席は、通りに面したテラス席。彼女もまた例に漏れず、”パリに住む人”なんだろう。もちろん雨足の強い日は、店内の窓際の、誰かさんの特等席をお借りする。

「ボンジュール、マダム。今日は朝からいいお天気ですね。ご覧の通り、テラス席も盛況です」
「ボンジュール、ジェローム。あら、でもこの席は空いているのね?」
「真っ赤なコートとルージュがお似合いのお客様の、特等席ですからね。どうぞ、おかけください」
「あら、まあ。ありがとう」
「いつもので?」
「今日はそうね……いえ、やっぱり、いつものショコラをお願いするわ」
「かしこまりました」

糊のきいた白シャツとビシっとした黒のギャルソン服をまとったジェロームは、過大な愛想笑いなどは一切なしに、けれど親しみのこもった声色で注文をとると、設えの美しい店内へと姿を消した。彼もまた、長年このドゥ・マゴで働くギャルソンのひとり。今でこそ白髪の混じった頭をしているが、昔は深いマロン色の髪が美しい、好青年だったに違いない。それから何十年も経った今だって、もちろんダンディでハンサムな男であることには変わりないが。

 テラスの席に座り、ホッと一息ついたエマが腕時計に目をやろうとした時、ふいに道路を挟んで向かいにそびえるサン=ジェルマン=デ=プレ教会の鐘の音が響いた。

「まあ……」

――祝福の鐘の音。パリに住むどこかの幸せなカップルが、挙式をしたのだろう。垣根や街路樹が視界を遮っていて教会のファサードまでは見えないが、参列者たちの祝福の声が、道路をはさんだところにいるエマの耳にもしっかりと届いていた。

「何十年も何百年もこの教会は変わらないのよ。パリに住む人々を祝福したり、天へ送り出したり……。50年前にも今と同じように、新しく夫婦になるカップルのために祝福の鐘の音を鳴らしてくれたの。そんな新婦も今では、こんな真っ白の髪になっちゃったけれどね」

何事だろうと、一生懸命垣根の合間から様子を伺おうとするこちらに目をやると、彼女はそうこっそりと教えてくれたのだった。笑った時に強調される幸せや苦労の数だけ刻まれた皺が、なんとも美しくて格好いい。老いを恥じることなどせず、積み重ねてきた自分の人生に自信を持っている証だろう。

「おまたせしました」
「メルシー」

デ=プレ教会に向けられた彼女の瞳と、スマートに仕事をこなすジェロームの姿を見る彼女の瞳は、どちらも等しくやわらかに細められている。たった二言の短い言葉だけを交わして、彼女は運ばれてきたショコラのカップに口をつけた。

「それにしてもテオドールったら遅いわね」

今度は何にも遮られずに、真っ赤なコートの袖の下に隠れた腕時計に目をやる。どうやら、待ち合わせをしているようだった。

「ちょっと、年寄りの暇つぶしに付き合ってくれるかしら?」

カップをソーサーに置き、真っ赤なルージュとはちぐはぐな、少女のような可愛らしいウインクを見せてくれた。

「もう50年近くにもなるかも知れない……。そのくらい前から、わたしはここに通っているの。ほら、このカフェは有名な詩人や芸術家、俳優なんかが集まっていたカフェでしょう? はじめはそんな知的なイメージに惹かれて、読めもしない英語の本なんかを持って、気取りたくて来ていたの。笑ってやってちょうだい」

近くの街路樹にとまっていた小鳥たちが、食べこぼしのパンくずをつつきに、隣のテーブルの上に遊びに来ている。

「けれど、そんな英語の本はすぐに本棚にしまいこんだわ。本の中の世界よりももっと、わたしを虜にするものを、ここで見つけちゃったから」

そうはにかんだエマは、ショコラの注がれたカップを覗き込んだ。木陰から射し込む午前中の清々しい陽光が、彼女の頬をほんのり赤く照らしている。彼女のコーヒーカップの中には、何が映っているのだろう。ひょっとすると、ショコラよりももっと甘くて、もっとほろ苦い思い出なのかも知れない。

「ここのショコラは絶品よ? 初めは背伸びをして、ブラックのコーヒーや、せいぜいお砂糖抜きのカフェ・オ・レばかりを頼んでいたのだけど。けれどね、ある雨の日に、その時のボーイフレンドと喧嘩をしたわたしは、涙と雨でぐちゃぐちゃになった顔でこのカフェに駆け込んだの。雨だったけど、テラス席を選んだわ。その時に、ショコラを勧めてくれた人がいてね。こんな寒い日は、甘いショコラを飲めば温まる、って。おかしな話よね。冷えた身体を温めるのなら、ショコラなんかよりもカフェの中の席を勧めてくれればいいのに。運ばれて来たショコラは、確かにわたしの身体を……それと心も温めてくれたわ。何も言わずにわたしの話を聞いてくれる存在があったことも重要ね。それで気づいたら、わたしったら恋に落ちちゃってて。それ以来50年近く、わたしはこの思い出のカフェに通って、この席でショコラを頼むの」

彼女の話に耳を傾けているうちに、デ=プレ教会の前の広場は、すっかりいつもの静けさを取り戻していた。

「ごめんなさいね。見ず知らずの方に、こんな年寄りの昔話を聞かせちゃって」

それでその恋のお相手って――そう訪ねようとした時、彼女は通りの方に向かって小さく手をあげた。

「ここよ、テオ。遅かったじゃない」
「道路を渡る前から、キミがそこに座っているのは分かってたよ。というより、家にいたって、キミがそこに座っているであろうことは分かるさ。嬉しいことがあった日にも、喧嘩をしてしまった日にも、キミはいつもここに来るから。――遅れてすまなかったね、エマ」
「いいわ。おかげで、昔の思い出話ができたから」

彼女は再びこっそりと、少女のようなウインクをこちらに向けた。

「少し待ってちょうだいね、テオドール。今、お会計を済ませるから」

エマが椅子からわずかに腰をあげ、ギャルソンを呼ぼうと周囲を見渡す。そんな彼女の姿をいち早くとらえたのは、やはりジェロームだった。エマが声をかけるよりも先に、彼女の席へ向かってくるジェローム。もしかすると彼は、このカフェの中でも一位二位を争うくらい、優秀なギャルソンなのかも知れない。ジェロームが、お釣りをエマに手渡す。エマの手は微かにジェロームのそれと触れ合ったように見えたが、次の瞬間には、隣に立つテオドールの腕に添えられていた。

「メルシー、エマ」
「ええ。ボン ジュルネ」

一部始終を眺めていると、エマは最後にもう一度こちらに顔を向けた。

「パリジェンヌは、恋多きものなのよ。パリの一日を楽しんでね。オル ヴォワール」

真っ赤なコートが眩しい、彼女の後ろ姿を見送る。隣に立っていたはずのジェロームは、もう店内に姿を消していた。

 すっかり冷めてしまったカフェ・オ・レに口をつけながら、時を告げるデ=プレ教会の鐘の音に耳を傾ける。一体全体、彼女の恋のお相手は誰だったのか……。否、「何」だったのか。ジェロームかもしれないし、彼女の隣に寄り添っていたテオドールかもしれない。それに、彼女がいつも飲んでいるというショコラかもしれないし、もしかすると、ここから見えるサン=ジェルマン=デ=プレ教会のある、変わらぬ景色なのかもしれない。あるいはその全てが、彼女の恋のお相手なのかもしれないのだ。

パリジェンヌは、恋多きもの――

 エマが姿を消した後の隣の席に、二人の若いカップルが、仲睦まじそうに笑い合いながら腰をかけた。このカフェではきっと、今も昔も、そしてこの先も、たくさんの物語が紡がれていくのだろう。それも、このパリの街と一緒で、一筋縄ではいかないような物語が。

 時を告げるデ=プレ教会の鐘の音が、晴れ渡ったパリの空に、静かに鳴り響いていた。

 

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